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六畳一間の仕事部屋。

モニターと引き延ばし機の間が、エルサレムとパレスチナ。
手負いのネガの残骸が、平積みになって押し寄せる。

仕事はまあまあよ。
つか、借金大王の頃から、大概まあまあってことにしてきた。
地軸が歪んでもまあまあ、氷河期が来る前もまあまあよ。
何があってもまあまあで、一瞬の炸裂があるにせよ、
平たく平たく、アフリカ的にポレポレで、沖縄的になんくるない日々の、
ごく、個人的な物語がやっぱりまあまあよ。

感情は、そりゃーいろいろある。
親友を失いつつあり、母は同じ小言を繰り返す。
揺れろ揺れろと言い放ち、感情こそは揺れてくれよと乞うてみたり。

俺はただ産まれて来ただけだけど、
46億分の何人かは、加藤の家に長男が産まれたことさえ憎悪かも。
そういうの原罪って言うのかな。

ファック(す)原罪。

感情や思考の話をする時に、
人が生まれながらに罪を背負って生きている、という前提を作ることは、
俺には卑怯な事に思える。

価値観の違いで人を隔てがちな友人に俺が激怒するのは、
「おい!それはジョーカーでしょ!」ってことなんよ。

原罪って、人が背負ってる罪というよりは、
人が人を隔てるための、かなり最小公倍数的な、大いなる原理のように思える。
自分が自分でいる理由を、ネガティブな尺度から捉えた一つの真理めいたもの。

罪が、人に前提として与えられていて、
じゃあ誰かが、神の目のように全てのことを愛したいと思った時に、
人が神になれないように、大きな愛を持てないように、
現人神が、彼らの特権を維持する為に。

そんなご大層な気持ちは当然ないけどさ。
大きな愛の話は当然出来ず、
閉め切ったシャッター前で、せいぜい性欲をたぎらすだけだけどさ。
(あれはよかった。ぞくぞくした。)

人、思いし、遥なれ、でさ。

せっかく日本人。
聖徳太子によって、仏教原理は嵌められたように感じるかもだけど、
私人の原理は私人の中にありけり。

ひとつひとつの私の気持ちが、神の目のように全てを慈しみたいと思うけど、
なかなかそうはいかんけども、
ただ、原罪の側に立つのではなく、
壁に当たって割られ続ける卵の、儚い村上さんサイドでありたいと思いました。

今日の写真家とのアルコールが、
ずっと、個人のことを考えさせた。

個人て本当は小さいものなのか?尊いものなのか?

という問いに、

彼女は、「それは尊い」と応え続けた。

そんな年末。









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コメント

小さくて尊い、んじゃないのかな。尊いと大きい/小さいは関係ないんじゃないかな。
なんて、思いました。
---------- nyhi [ 編集]* URL * 12/31, 02:03 -----
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